Miyakawa Blog

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豪姫と秀家のおもてなし

もう2週間以上前になりますが、CVCK のビジネスモデルの参考にするために 11月29日(金)金沢市野町2丁目の大蓮寺のご住職に取材してきました。 伺ったのは加賀藩初代当主前田利家と正室まつの間に生まれた四女「豪姫」とその夫「宇喜多秀家」のお話です。 今日はそのことについて書いてみます。

▼その日はあいにくの雨空でした。 f:id:miyakawa244:20131129152441j:plain

豪姫の父親である前田利家が羽柴秀吉(豊臣秀吉)と仲がよく、秀吉は子に恵まれなかったため、秀吉にたのまれた利家は豪姫を秀吉の養女として出すことになりました。

豪姫をたいそうかわいがった秀吉は日本一の大名に嫁に出すと言っていたそうです。 そして、秀吉は1番かわいがっていた岡山出身の大名 宇喜多秀家に豪姫を嫁がせました。 世が世でなければ夫婦仲むつまじく過ごしていたことでしょう。 しかし、関ヶ原の戦いで敗れた秀家は追われる身になります。

後に豪姫と秀家は一度だけ再会を果たしますが、罪に問われた秀家と2人の子どもとその家臣たちは八丈島へ島流しに合います。豪姫は一緒に島流しについていくと言いますが、身体が弱かったこともあり認められませんでした。 正確な時期はわかりませんが宇喜多家はお取り潰しにあい、豪姫は前田家の元に戻されます。

※徳川家康の内孫である珠姫を前田利常の正室に迎え入れたこともあり、秀家が徳川に謝罪し、十万石の大名として加賀藩に入れば島流しは免除される話もあったそうです。それでも島流しを選んだ秀家の徳川への恨みは相当強かったのでしょう。

豪姫は徳川の許しをもらい八丈島へ毎年、お米やお金、衣類、薬などの仕送りを前田家から送ります。 まだ幼かった子どもたちのために自分の姿絵を絵師に書かせて送ったこともあるそうです。 ※まだ幼かった子どもたちが「母様、母様」とおでこを撫で続けた跡がその絵には白く残っています f:id:miyakawa244:20131129155458j:plain *上記写真は写し絵です

豪姫は毎日大蓮寺に訪れて、大仏様をお祈りして八丈島の家族の無事を祈ったそうです。 今も大蓮寺には当時の仏像と豪姫の姿絵の写し絵が保管されています。 仏像が入っている箱の鍵は和船の形に誂えてあり、豪姫はいつもこの鍵を開け閉めをしながら自分も一緒に行きたかったと願っていたのかもしれません。

▼奥に写るのが豪姫が毎日祈っていた仏像です。手前右の位牌が豪姫の位牌です。左手前の位牌は大蓮寺の先代の住職が豪姫が1人だとかわいそうだということで新しく作った秀家の位牌だそうです。 f:id:miyakawa244:20131129161729j:plain

▼和船型の鍵 f:id:miyakawa244:20131129161903j:plain

豪姫は61歳で亡くなりますが、秀家は83歳に生涯を閉じたそうです。

前田家からの仕送りは豪姫が亡くなっても、豪姫の遺言により続けられ、秀家が亡くなられても宇喜多家の子孫のために江戸時代が終わり秀家の罪が解かれるまで260年も仕送りが続けられたそうです。 豪姫の愛が宇喜多家の子孫たちをもてなし続けたわけです。 明治3年宇喜多家の子孫が東京に移住し、住まう長屋に落ち着くときに当時のお金で1000両の支度金を支払って前田家の最後の支援になったそうです。

また、秀家たちは自分たちが前田家から支給してもらう仕送りを独り占めせず、島民たちに港で分け与えていたそうです。そのためか今でも大蓮寺には「あのときはありがとうございました」と八丈島からわざわざ豪姫にお礼をいいにくる方々がいらっしゃるそうです。 豪姫と秀家そして、前田家の260年のおもてなしが島民たちを支えていたわけですね。

大蓮寺には豪姫と秀家の供養塔があり、先祖代々野田山にある豪姫の墓をお守りし続けているそうです。 事前に電話などで予約をすれば住職のお話を伺うこともできるそうですよ。

▼野田山の豪姫のお墓。前田家の利家とまつのお墓の側にひっそりと立っています。 f:id:miyakawa244:20160508111843j:plain

また、今の富山県高岡市にある浮田家住宅は豪姫と秀家の子どもを匿うために作られた家ではないかと言う説もあります(江戸中期に建てられた浮田家住宅は国指定重要文化財になっています)。 島流しにされる前に豪姫と秀家が会ったときに豪姫が身ごもり、その身ごもった子どもを幕府の目を欺くために、当時の富山にはなかった浮田家を加賀藩が作り、子どもを預けたという説です。 そうしなければ生まれてきた子どもも幕府の手によって八丈島に島流しされてしまうからです。 もし、本当に豪姫と秀家の子どもであったなら、豪姫の心の傷を少しでも癒してくれていたかもしれません。 浮田家は藩境や山林の警備の仕事を任されて、500石の格式を許されています。農民でありながらこれだけの役割を任されていたのならもしや?と思いますよね。あくまで一説ですが。

余談

八丈島は政治犯などの罪人が島流しにあうところでした。 そのためか滅多に島流しはなかった場所のそうです。 残忍な罪人などは別の場所に島流しされていました。 ちなみに宇喜多秀家が八丈島への島流しの第1号だというのは有名な話です。

当時、秀家本人と、その息子2名、そして、身の回りのお世話をする7名の家来がついていったそうです。合わせて10名。 その家来の中には医者もおり、秀家の幼い子どもの世話をする女中もいたそうです。

島流しにあったとはいえ、元大名であり、知識と教養、家柄的にも問題がないので島民からは歓迎されて受け入れられたそうです。 「うちの娘を嫁にもらってください」という申し出もあったことでしょう。

明治3年に宇喜多家は 10 軒あり、そのうち 3 軒が前田家が用意した東京の長屋に移り住んだそうです。 因に第2次大戦まで東京の長屋に住んでいた人がいたそうです。